ここでは、ア・ドライグ・ゴッホ(Y Ddraig Goch — 赤いドラゴン)の伝説について、その神秘的な始まりから現在の使われ方まで、知っておくべき情報を余すところなくご紹介します。

物語は戦いから始まる

ジェフリー・オブ・モンマスの12世紀の著作『ブリタニア列王史』(Historia Regum Britanniae)によると、ケルトの王ヴォーティガンが城を建てる場所を探していたところ、やがてディナス・エムリス(Dinas Emrys)の丘の中腹に気に入った場所を見つけました。しかし、問題は、その城の基礎が何度も崩れてしまうことでした。

アーサー王伝説に登場する魔法使いマーリンだと思われる少年が、ヴォーティガンに、彼の城が建たない理由はその場所が地底湖の真上に位置していて、そこに2頭のドラゴンが眠っているからだと告げました。

ヴォーティガンの部下たちが地面を掘り進めると湖が現れ、彼らはそこで2頭のドラゴン(赤いドラゴンと白いドラゴン)を発見しました。ドラゴンたちはすぐに長い眠りから目を覚まし、激しい戦いを始めました。戦いの大半は白いドラゴンが優勢でしたが、最終的には赤いドラゴンが勝利を収めました。

座っているドラゴンの画像。
アーサー王の迷宮(King Arthur's Labyrinth)のドラゴン像、コリス、ウェールズ中部

この戦いが意味するもの

若きマーリンはヴォーティガンに、赤いドラゴンは、侵略してくるサクソン軍(後のアングロ・サクソン)との戦いに臨む彼の民(先住民であるブリトン人)を象徴していると伝えました。

年月を経て赤いドラゴンはウェールズの象徴となり、さまざまな解釈のア・ドライグ・ゴッホ(Y Ddraig Goch — 赤いドラゴン)が、ウェールズのスポーツチームのユニフォームや、世界中に輸出される食品、そして私たちの町や都市で誇らしげに掲げられています。

その始まりの物語は、神話やミステリーのように聞こえるかもしれませんが、1945年にディナス・エムリス(Dinas Emrys)の発掘調査が行われ、ヴォーティガンの時代に遡る湖と要塞の証拠が見つかりました。やはり、ドラゴンは実在するのかもしれません…

木々に囲まれた屋外に立つ、ウェールズの赤いドラゴン像。
ウェールズ国立ショーケーブス・センターにあるドラゴンの像

ドラゴンと旗

ドラゴンのシンボルは、ローマ時代から軍旗に使用されてきましたが、おそらくローマ軍はダキア人(東ヨーロッパの古代国家の住民)から借用したものと考えられています。

その後、ローマ軍のブリテンからの撤退後に、自らの権威を示したいと願っていた5世紀のウェールズの王たちによって取り入れられました。1400年にオワイン・グリンドゥールがイングランド王ヘンリー4世に対する名誉ある反乱(最終的に不運に終わってしまいましたが)を主導したとき、彼は金のドラゴンをあしらった白い旗の下で蜂起しました。

現在のウェールズ国旗の誕生に、私たちが感謝しなければならないのはヘンリー・チューダーです。彼は、カドウァラドルス・アプ・カドウァロン(Cadwaladr ap Cadwallon‐「ブリトン人の最後の王」)からの血筋を示すために、白と緑(伝統的なチューダー朝の色)の背景に赤いドラゴンを配置し、1485年にリチャード3世に対するボズワースの戦いに勝利した後、セント・ポール大聖堂でそれを披露しました。ペンブルック生まれのイングランド王は、ヘンリー7世として24年間イングランドを統治しました。

ウェールズのドラゴン — ア・ドライグ・ゴッホ(y ddraig goch)

その後ドラゴンの人気はいくらか衰え、1606年のユニオン・フラッグには描かれませんでしたが、1959年にエリザベス2世女王は、「ウェールズ政府の庁舎には、緑と白に赤いドラゴンが描かれた旗のみが掲げられるべきである」と宣言しました。

今では、ウェールズのドラゴンは、バッジ、ボタン、バンパーステッカーに描かれ、国際試合では熱心なラグビーファンの顔にペイントされています。これほど素晴らしい旗は他に類を見ず、私たちは世界最高峰のひとつだと自負しています。

Welsh National Flag outside Cardiff Castle
青空を背景にしたウェールズの国旗
青空を背景にしたウェールズの国旗

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